ダンスと同じで「考え方」もアイソレーションできた方がいい事が多い気がする
新しい考え方でもなんでもないんですが、最近「ダンスと同じで『考え方』もアイソレーションできた方がいい事が多い気がする」と実感したことが多かったので、そのことを書きます。
アイソレーションとはなんぞや?と言いますと、
アイソレーション (Isolation) とは、分離、独立、絶縁などの意味。以下の用法がある。
と言うことなんですが、今回の記事ではもっとざっくり「細かい部分に分けることができること」という意味で理解してもらえればと思います。
例えば、ダンスの経験が無い人間は体を6分割ぐらいしかできません。それに比べて、少し慣れてくると体のパーツをもっと細かく分割して動かせるようになってくるので最初に比べると複雑な表現ができるようになってきます。
ケント・モリさんのダンス。すごく滑らかで複雑で、「自分と同じ『人間』なのかな?」なんて思ってしまいますよね。でももちろんケントさんと私達は同じ組織でできている人間な訳で、「どれだけ体を細かく分割して動かせるか」というのを極めていくと(もちろんそれ以外の要素もありますが)、基本は同じでもここまで差が出るのか、というのがすごくわかるなと思います。
体のアイソレーションで同じ人間でもこれだけ差が出るように、「考え方」のアイソレーションができるかできないかによっても、同じ人間でも大きく差が出てくるのではないかな。
そしてそれができるようになるには、体と同じく「頭」も鍛え続けないといけないのではないかな。
と最近思っています。
例えば、「物事白黒はっきりしていないと嫌!」というのは割とよく聞く言葉ですが、世の中白黒はっきりできない物の方が圧倒的に多いと思います。
そんな中、「白・黒」の2つしか選択肢がないと、「どっちでもない現実」に対応しきれない。
でも、「白・黒」の間にいくつも目盛りがあれば、「う~ん、10段階で言うとグレーの6ぐらいかな」と、「白・黒」に比べて選択肢が広がって、現実に対応しやすくなるし、自分の気持ちを細かく分析できる。
「白・黒」問題と同じぐらいよく話に出るのが、「好き・嫌い」問題。
私の実感で言うと、「好き・嫌いがはっきりしていないと嫌」と言う人は、その人が認知している全ての物事・人を「好き・嫌い」で分類したとするとそれが決して1:1ではない場合がほとんど。
そして、左側のように「好き」の許容範囲が広い場合よりも、右側のように「嫌い」の範囲の方が広い場合の方が多い印象があります。
そして、それは個々の事象の好き嫌いを判断する時にも比例しているように思えるのです。例えばAさんという人を「好き・嫌い」で判断する場合、例えAさんの中に「好き」の要素があっても「嫌い」な要素が1ミリでもあれば「嫌い」グループに分類してしまう。これでは「嫌い」が増えていくにきまっているし、世の中が「嫌い」で増えていくのはどう考えても楽しくないんじゃないかなぁ、と思うのです。
例えば、自分がAさんのことをこんな風に思っていたとします
アイソレーション的考えができる人は、「Aさんのことは好きな要素の方が多い。ちょっと嫌だなぁと思うところもあるけれど、まぁでも一緒にいて楽しい部分の方が圧倒的に多いし、これからも仲良くしていきたいな」と思えたりするでしょう。
「白か黒か」派の人は、「嫌いな部分もあるけど、好きな部分の方が多いからAさん大好き!!」となってくれればいいのですが、今まで見てきた白黒派の人は「嫌いな部分が1つでもあるから嫌い!!」と言っていた人ばかりでした。「でもその分類法で行くと世の中に好きな人なんて一人もできなくない?あなたも周りも生き辛くない??」と思ってしまうんですよねぇ。
ちなみに私は誰かに対して「嫌い!!」と思ったりすることはもちろんありますが、少し落ち着いたら
- その人のどういう部分を自分は嫌だと思うのか
- それを嫌だと思うのは、自分の中にどういう価値観があるからなのか
- その人を「好き」と判断している人達は、その人のどういうところに魅力を感じているのか
- 「嫌だ」と思う要素を自分の好きな人も持っていたとしたら、その人の事も嫌いになってしまうのか
を考えて言語化してみるのが好きです。そういう作業をすることでただ「嫌い!!」と思っていた時とは少しだけ違う気持ちでその人の事を見る事が出来るようになる、優しく接することができるようになる気がしています。
自分の気持ちを「嫌い」という一語で「塊」として処理してしまうより、丁寧にほぐして理解した方が
- 自分でも気づいていなかった自分の気持ちに気付くことができる
- 「なんか嫌」で済ませていた時には相手の実態を事実に基づいて判断しようとせず勝手なイメージで判断していたことも多かった。しかし丁寧に分析をすることで相手を勝手に決めつけることが以前よりは減ったし、嫌いと思う原因が自分側にある事も多いことに気が付ける
- 「100%嫌いな物事・人」が減って自分が楽になった。多分そういう私と接する方が、周りも楽だと思う
など、いいことが多いなと感じています。
自分の気持ちを細かく考えていくのも好きですが、(その人が本当は表現したいと思っているけれど上手く引き出されていない)人の気持ちを聞いていくのも好きです。
人の気持ちがだんだんと見えてくる喜びというのは、土に埋もれていた遺跡を丁寧に発掘していったら全貌が見えてきた時の喜びや、美術品を丹念に修復した時の喜びに似ているのかな、なんて思っています。
会話をしていく中で、その気持ちが見えてきて、相手が「ああ、私って、こういうことを考えていたんだ」とすっきりとした顔になることがごくまれにありますが、そういう時はこっちも嬉しい気持ちになります。
今後も、自分の心が「何か」を感じた時は「自分の頭で考える」という頭の運動を続けていきたいなぁと思っています。
最近、昔より色々なことを考えられるようになってきた気がして、すごく楽しいです。